この記事では、ガリシアを代表する女性詩人ロサリア・デ・カストロの生涯について紹介します。
- 出生の秘密
- サンティアゴ・デ・コンポステーラ旧市街内にあるロサリアゆかりの場所
- 家族や彼女のお墓の場所
について順番に紹介していきます。
是非、参考にして下さい。
ロサリアの出生の秘密
1837年2月24日、ロサリア・デ・カストロは、聖職者の父親と郷士(爵位をもたない貴族)の母親の間に生まれました。
生まれてすぐに、母親の家で働く女性の手でサンティアゴ・デ・コンポステーラにある王立病院へ運ばれます。
孤児院を併設していた病院の礼拝堂で、ロサリアは【両親不明の子】として洗礼を受けました。
母親は幼いロサリアを見捨てた?
母親は聖職者との間に出来た子供を育てることに立ち向かえず、
ロサリアは父方の家族が住む村やパドロンで叔母に育てられたと言われています。
Wikipediaでは8歳まで叔母に育てられたとしていますが・・・
父親の家族がロサリアの母親が自分の娘を見捨てたという情報を流したがそれは事実ではない。
母親の従妹は、両親が結婚する前に生まれサンティアゴの王立病院で洗礼を受けた。ロサリアの母親が娘を王立病院に送ったのは娘の出生の秘密を守るためで見捨てた訳ではない。
1842年、ロサリアが5歳の頃にパドロンで行われた人口調査の名簿に母親のテレサ、召使いのフランシスカと一緒にロサリアの名前が記録されている。
情報元: Faro de Vigo
と、主張するロサリア・デ・カストロを研究する専門家もいます。
洗礼証明書からロサリアは洗礼後に母親の使用人が連れて帰り孤児院に入っていませんが、
最初は父方の家族に育てられ、5歳ぐらいから母親と住み始めたのではないかとする意見が多いようです。
サンティアゴ旧市街内のロサリアゆかりの場所は?
(ビラール通り41番地はロサリアの母親の家)
1850年、ロサリアはパドロンから母親と一緒にサンティアゴへやってきます。
サンティアゴの市場のすぐ横にある聖アグスティン広場には当時の若者の文学同好会(Liceo de Juventud)がありました。
ロサリアはガリシア文芸復興の推進者となるエドワルド・ポンダル(Eduardo Pondal)や
歴史家であり作家であるマヌエル・ムルギア(Manuel Murguia)と出会います。
1856年にロサリアはマドリードへ移り、そこで再会したマヌエル・ムルギアとのちに結婚します。
(コンガ通り1番地にあるのは大学の建物。ロサリアがここに住んだという看板有。)
結婚してからサンティアゴに戻ったロサリアが住んだ建物が、旧市街内のコンガ通り1番地にあります。
ロサリアの子供は何人?
出典: https://www.actualidadliteratura.com
1859年にロサリアは長女のアレハンドラを出産。
次女のアウラが生まれるまでに9年の月日が経ちますが、全部で7人の子供を産みます。
- Alejandra(アレハンドラ)
- Aura(アウラ)
- GalaとOvidio(双子のガラとオビディオ)
- Amara(アマラ)
- Adriano Honorado(アドリアノ・オノラド)
- Valentina(バレンティーナ)
しかし、アドリアノは17カ月の赤ちゃんの時にテーブルから落下して死亡し、バレンティーナは死産でした。
ロサリアが眠る場所はどこ?
1885年7月15日、ロサリア・デ・カストロは子宮がんにより48歳で亡くなります。
パドロンの近くにあるイリア・フラビアの墓地に埋葬されますが、
その後に詩人として有名になった彼女の遺体は、
サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ドミンゴ・デ・ボナバル修道院に移されました。
まとめ
- ロサリア・デ・カストロは郷士の母親と聖職者の父親の間に生まれる。
- サンティアゴにある王立病院の礼拝堂で両親不明の子として洗礼を受けた。
- 幼少時代に父方の家族と住んだ時期もあった。
- 1850年から母親とサンティアゴに移り住む。
- 1856年にマドリードへ行き、マヌエル・ムルギアと結婚。
- 夫との間に7人の子を授かるが、1人は死産しもう1人は事故死。
- 1885年7月15日、ロサリア・デ・カストロは子宮がんにより48歳で亡くなる。
- 彼女のお墓は、聖ドミンゴ・デ・ボナバル修道院にある。
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